智積院は、真言宗中興の狙である興教大師覚鑁(1095~1143)が開いた根来寺の地に、塔中として根来寺第十一代学頭長盛が興した寺である。
しかし、天正十三年(1585)に豊臣秀吉の兵火によって根来全山が灰塵に帰した時、根来寺における智積院の歴史は幕を閉じた。
当時、根来寺には二人の能化がおられ、そのうちの一人であった玄宥僧正(智山中興第一世、1529~1605。もう一人の能化は、後に豊山長谷寺に入られる専誉僧正である)は、多くの僧を率い難を逃れ、流浪の末、徳川家康より京都東山の地を賜り、そこを中心として智積院の再興に着手された。
その後、奇しくも根来焼討ちを行なった豊臣秀吉が子の菩提を弔うために建立させた祥雲禅寺(臨済宗)を徳川家康より日誉僧正(智山第三世、1556~1640)が賜ることとなり、これによって今日の智積院の基盤が確立されるに至るのである。
この祥雲禅寺の重閣は天和二年(1682)の火災により烏有に帰すが、その名残として「利休好みの庭」で有名な名勝庭園と、長谷川等伯とその弟子たちによって画かれた国宝『松に秋草図』、『桜図』、『楓図』等の障壁画群とが現存し、これらより華麗なる桃山文化の粋を見ることができる。
このように智積院は、洛東へと寺地は変遷したものの、原点は根来であるとして、今も「五百仏山根来寺智積院」と名乗っている。興教大師が根来において虚空蔵菩薩求聞持法を修した時、五百の仏が現われたという故事に基づいた「五百仏山」という山号を用い、そして、「根来寺」の名も古来のまま残しているのである。
また、智積院の本尊は、金剛界大日如来である。これは、興教大師が高野山において大伝法院を開創されるに際し、弘法大師の建てられた大塔の胎蔵界大日如来と両部不二となるようにと、金剛界大日如来を本尊とされたことによるのであり、高野から根来、そして、洛東の地へと本尊もまた受け継がれ、興教大師の法灯を守っている。
(特別展観「智積院の名宝」目録 平成13年9月27日発行)
玄宥僧正